『新潮』2024年8月号に掲載した短い文章「偽名、あるいは濁ったガラスについて」を公開します。僕の名前の由来について語った自己紹介的なエッセイです。
偽名、あるいは濁ったガラスについて
森脇透青
限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』
偽名を名乗っているような恥と引け目を昔からずっとひきずっている。そもそも「透青」という小奇麗な漢字の並びが似合わないしそぐわない。パソコン音楽クラブに「透明で青いその音楽で/柔らかな空の青/不器用なあなたのMelody」♪ などと歌いあげられると赤面して、内なる町田町蔵が「おまえらと一緒にすな、このタニシ」とぼやくことになってしまう。この気恥ずかしさのゆえか、これまで批評文では「左藤青」という筆名を使っていた。
さまざまな便宜もあって、去年から活動名を本名に一本化した。左藤青は死んだ。その統合の時期といえば、名前がどこかに印字されているのを見るだけで部屋をうろうろしたり、壁に額をすりつけたり、シャワーを浴びながら叫び声をあげたりしていたものだ。今はもう何も思わないが。
こうした奇行におよんでいるとき、いつも批評家たちを思い出していた。批評家はたびたび名前について考えてきたからだ。たとえば『探究Ⅱ』で柄谷行人は固有名を論じる。柄谷によれば固有名が指すのは「単独性」である。それは「特殊性」――他人と異なる私の属性を足し算した結果――と区別される。単独性とは、どんな可能性を汲み尽くしたところで揺らがない、「他でもあったかもしれないが現実にこうである」ところの「この私」の特異な現実性、私という存在の、交換不可能な一回性のことだ。
『探究Ⅱ』のこうした議論を読むと、いつも決定的に気恥ずかしい気分になる。「この私」であることを引き受けよ、と迫られている気がするのだ。肌に馴染むのはむしろ柄谷を批判した東浩紀の議論で、彼はむしろ「他でもあったかもしれない」という「確率」の次元にこそ照準を合わせる(『存在論的、郵便的』)。「この私」は、無限に何度も反復されるなかで、たまたまこの一回に生じたルート分岐のようなものだ。そうして東は固有名の強制力を弱める。
「現実にこうである私」の単独性から「他でもあったかもしれない私」の偶然性へ。なお名前にかんして言えば、同時期以降の東が情報社会における匿名性の問題を論じていくことも見逃せない(「情報自由論」)。のちに態度変更がなされるものの、少なくともこの時点での東は、個人を識別する監視社会の統治機構に対して匿名の権利を擁護していた。それは「誰か」として固定され特定されない、「誰でもなくいられる」自由を確保することだ。
「他でもあったかもしれない私」は「「誰か」でない私」に通じる。しかしこうして対照的に見える柄谷と東の議論は、前提を共有してもいるだろう。彼らがいずれも模索したのは、個人を諸属性の総和(特殊性)としての「誰か」へと縮減し固定する一般性の暴力から身を翻す方策だからである。
こうした議論を、冒頭に記したコンプレックス、つまり拭えぬ偽名の感覚抜きに読めたことはない。だが今となっては、もしかすると「偽名性」の問題こそが、「固有名」と「匿名」のあいだに潜んでいるひとつの盲点かもしれない、とさえ思える。
詳細に議論を展開する紙幅はない。けれども最低限強調しておきたいのは、名前はそもそも他人から呼ばれるためにある、というひとつの常識である。いや、さらに、それは他人から名づけられるものでさえある。たとえば「透青」を名づけたのは父親だった。父と会ったことはないが、母親からうっすら聞くかぎり、父は大学の映像サークルに所属しており、その際フィルム・ネームとして「透青」という偽名を使っていたらしい(どんな感性の持ち主なら、それを息子にそのまま名づけるのか)。「透青」は「父の名」いや父の偽名だ――しかもおそらく、引用された偽名である。
他者の偽名を名乗りつづけている。だから、複数の可能世界を貫通する固有名の単独性、などと言われても、そこから他人事の手触りを拭い去ることは不可能だ。だが、この解離は個人的な経験に収まるだろうか。デリダはこう言っている。「〈私〉と語るとき、その主体の名はある一定の仕方でいつも偽名である」1。ひとは「この私」だけを語ることができない。「私」の名において何かを語り証言するとき、どんな私的経験であれ、言葉は特異な秘密から剥離し、他人にも当てはまる不気味な普遍性へと向かう(まさに〈私〉という、誰のことでも指しうる一人称代名詞において)。この固有性の裏切りをデリダは「偽名」と呼ぶ。
こう言い換えてもいい。他人から呼ばれ、読まれることによって、固有名は「この私」から離れ、一種の共有スペースになるのだと。たとえばひとが「キルケゴール」という名について語るとき、その名はもはや十九世紀デンマークを生きたひとりの男性の生とはかけ離れたひとつの場所として機能する。この仮想的な偽名空間には無数の他者たちが往来し、ときに滞在し、さまざまな読みやイメージを投影して戯れあう。この交差点でひとはしばしば、「キルケゴール」を語る別の他者たちとも出会うだろう。
偽名性の核心にあるのは、固有名の場所化、名の共有財化、名のコミュニズムである。固有性=所有権(property)は裏切られる。有名無名にかかわらずどんな固有名も偽名であって、それはけっして「私」の自由な所有物になりえない。たとえばいま「森脇透青」は私的所有から離れ、ごく小さい共有財と化しつつある。その名について他人が身勝手に語る言説や印象は、もはやほとんど自分事とは感じられない。
こうした疎外を主張するのは無責任なのだろうか。だが反対に、責任をもつためには、いつもこの他人事性が必要なのだ。宿命的な一人称(「この私」)に依拠し、あらゆる他者へ無限に責任を取ろうとすることは、誠実な自閉でしかない。このような潔癖の重圧から逃走し、快活に開き直ることに今後の批評の課題はある。必要なのは「この私」よりむしろ「森脇透青」という、あくまでひとつの偽名がとりうる責任の有限な範囲を――他人事のように――測量し、その場ごとに実装することだ。
名とは、他者たちが出会い、すれ違い、ざわめき、汚染し彩色しあう交雑の場である。どんな「本名」も、無媒介に「私」を指す透明のガラスではありえない。だからいくら「本名」を晒したとしても、彼は今後も、このいくらか濁った偽名を名乗りつづけることになるだろう。恥も知らずに。
- ジャック・デリダ『エクリチュールと差異〈改訳版〉』谷口博史訳、法政大学出版局、二〇二二年、二三一頁。訳は原文参照のうえ変更した。デリダはここでキルケゴールを論じている。おそらく念頭にあるのは、キルケゴールが複数の偽名を使いわける思想家だったことだ。そしてデリダ自身もまた、母から与えられた本名ジャッキーを隠し、偽名を名乗った哲学者だった。 ↩︎
(初出:『新潮』2024年8月号)
※ 『新潮』編集長の杉山さんのご厚意で転載させていただくことになりました。この場を借りて感謝を申し上げます。
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