森脇です。
先日より宣伝しているとおり、現在オンライン哲学セミナー「哲学のシークレット・サービス(SSP)」の受講者を募集中です。
同じく(というかSSPよりも先立って)セミナー「フィロショピー」を開講されている哲学者・批評家の福尾匠さんと昨日、共同で宣伝配信をしたのですが、そこで急遽、SSPとフィロショピーがコラボすることが決まりました。

コラボの内容としては
(1)お互いの講義にお互いがゲスト出演する
(2)双方の講義を受講することで受講料に割引がある
の二点です。
ゲスト出演
福尾さんには、SSP「脱構築とは何か」講座の第三回「日本で脱構築は可能か?/脱構築と日本の批評」にご参加いただきます。
僕の方は、フィロショピーの「日記の哲学:表現すること/させられること」講座の第六回(最終回)「反自伝としての日記:デリダのエクリチュール論」に出演します。
※ それぞれの講義の日程や詳細はそれぞれのセミナーのページをご覧ください。
SSPの福尾さん出演回
僕の講義のほうから書いておきますが、そもそも、第三回はこの講義のなかでも見どころとして設定していた回でした。
「脱構築」、それは1970年代以降の世界の中で、デリダの名前とともにさまざまな領域に拡散され広まっていった、一種のバズワードです。
しかし、デリダにおいて脱構築はそもそも「西洋中心主義」の批判として編み出された一種の思考様式であり、ある意味、〈西洋〉に限定された批判の範囲をもっているとも言えるのです(この点は講義の中でかなり丁寧にたどります)。
それがヨーロッパの外、はたまた西洋とは異なる文化圏と接したとき何が起きたのか。あるいはそんな受容がそもそも可能なのか? そして今それはどうなっているのか? それについて、アメリカやロシアや中国の例も紹介しつつ、とくに日本をサンプルにして考えてみたい。
そして僕の考えでは、それを考える上では、日本のある時期・あるタイプの批評的言説を見逃すことはできません。色々紹介しますが、代表的なところで言えば蓮實重彦や柄谷行人、浅田彰らによる受容であり、さらにそれに後続する東浩紀のデリダ論です。
こうした見慣れた名前も、「脱構築のグローバルな展開」という目線から再度見直したときに、新しい地図が見えてくるのではないでしょうか。そしてそれは、デリダ以外の脱構築を考えるヒントになるかもしれません。
フランス現代思想を専門にしながら日本の批評のコンテクストも重視してきたという意味では、この話をいま若手でできるのはまさに僕と福尾さんなのではないかと自負しています。めっちゃ必聴。
フィロショピーの森脇出演回
フィロショピーの方は、近年福尾さんが主題にされている(そしてご本人も実践されている)日記という主題から、現代思想やさまざまな文学作品を読むという非常に面白そうなセミナーで、その最終回でデリダが扱われます。
デリダの読者は知っていることですが、実はデリダは「自伝」というテーマに非常にこだわった哲学者で、自伝を書いたさまざまな思想家たち(アウグスティヌス、ルソー、ニーチェ…)らに並々ならぬ愛情をもっていました。福尾さんは、ご自身の主題である「日記」論のいわばライバルとしてデリダを設定しており、最終回ではそれについてお話をされるそうです。
僕もいちおうデリダを専門にしているということで、参加して意見を言ってみたいと思います。これについてはちょっと緊張していますががんばってしゃべります。
割引について
SSPとフィロショピー双方すべてのセミナーを受講される方には5,000円ぶんの割引がつきます。
こちらの割引チケットについてはフィロショピーのstoresで販売していますので、こちらからご購入ください。
※ 割引は現段階ですでにフィロショピーとSSPどちらか、もしくは双方のセミナーにお申し込みいただいている受講者の方にも適用されます。SSP受講希望者の方には私からすでにメール差し上げました。万が一、連絡が来ていないという方はssp.toseimoriwaki@gmail.comまでご連絡ください。
コラボについては福尾さんのほうでも告知されています。
急遽決まったことですが、ぜひご検討ください〜
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